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天川村役場
奈良県吉野郡にある天川村のサイトです。天川村の紹介、観光情報、村政情報を掲載しています。
天川村は高い山と深い谷によって形成されており、冬季はきわめて寒冷であるため、古くは人びとが定住するにはいたらなかったようです。本村には原始遺跡はほとんど発見されておらず、耕地に適した地形が少ないことが、先住者を妨げたことが容易に推察されます。また、高天原に所以するとされる「天の川」という名称が、この地方の河谷に名づけられたという伝承があり、この地域が定住することがはばかられた一種の聖域だったとも考えられます。そして、このことが修行者たちの「行場」を開くきっかけとなり、約1300年前に役の行者により大峰開山がなされて以来、人びとの定住を促すことになり、山岳修験道の根本道場として栄えてきました。そして、平安時代には、宇多天皇、菅原道真、藤原道長、白川法皇、西行法師などをはじめとする多くの貴顕や一般の人々が、熱心に大峯山への御岳詣を行いました。
また、大峯連山の一つの弥山に祠られた弥山大神の歴史もきわめて古く、天川神社の創建とその隆盛とともに聖域化され、これらに前後して「天ノ川」という河川名が生まれたと考えられます。地形的には、現在の阪本を分岐点として遠つ川(十津川)と天ノ川に分けられていました。本村は、大海人皇子と深いつながりがあり、皇子は、壬申の乱に勝利して即位した後、吉野総社として天河社の神殿を造営しています。また、天平5年(733)、光明皇后は、生母供養のための奈良興福寺西金堂建立にあたって、西金堂の荘厳具のひとつである華原磬の台石に、洞川地区から産出される白石(大理石)を用いたと伝えられます。その後、南北朝時代には、本村は南朝方の重要な拠点として後醍醐天皇、護良親王、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇などを擁護しつづけ、現在、十三通もの綸旨・令旨が残されています。本村は、天河弁財天社の信仰を核にして繁栄し、ことに南朝天皇による課役免除の綸旨による恩典もあって、経済的にも安定していました。
本村は、戦の必需品である弓竹の矢の産地としても知られ、南朝方、織田・豊臣両氏に矢竹を上納しました。江戸時代には、天川23ヶ村(和田、栃尾、九尾、坪内、日裏、中谷、沢原、河合、中越、沖金、小原、南角、五色、沢谷、北角、洞川、山西、籠山、庵住、塩野、滝尾、塩谷、広瀬)は天領とされ、年貢の他に矢竹を上納し、幕府の役人である代官によって統治されていました。幕末期には、天誅組挙兵による若干の余波がありましたが、天川郷は比較的平穏裡に明治維新を迎えました。そして、明治22年の「市制及び村制」の発布によって、旧天川郷・三名郷(吉野八荘の一つ天川荘が分かれたもの)の合体により天川村となり、以来、村政百年をへての歴史を刻んでいます。

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